#24 ツーリストシップの申し子

僕、ツーリストシップの申し子だと思うんですけど

修学旅行でワークショップを受けた生徒

その一人がためなりけり。

「父ちゃんって、泣くことあるの?」

時々我が子から、

不思議そうに私の目を見ながら、

改まって聞かれることがある。


どうやら私の目から、

涙が落ちるところを見たことがないらしい。


確かに、例えば映画や本で、

涙することはほとんどない。



でも、通勤電車の中で、

この私が思わず、

どうしても堪えきれなかった本がある。



およそ730年前に書かれた、

『歎異抄』だ。



説明は大幅に端折るが、

要するに浄土真宗の開祖、

親鸞聖人の言葉を書き記したもの。


当時の仏教に対する「異説(間違った説)」を

弟子の唯円が歎き、正そうとしたものだそうだ。



概念をひっくり返され、

そして阿弥陀仏の本願に救われるという文脈は、

当時の私に強烈な愛と器を感じさせた。



通勤電車でその書を開き、

不覚にも涙が止まらなかった。

無宗教を謳う私にとって、

とても衝撃的だった。



その文面の中で、今日のテーマである、

「申し子だと思うんですけど」が、

やってくるのだった。



『歎異抄』のあとがきに当たる、

「後序」にその一文がある。




弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、

ひとへに親鸞一人がためなりけり。



ざっと訳せば、こうなる。



『阿弥陀仏が長い長い時間をかけて

 祈ってくれた願いというものは、

 よくよく考えれば、ただこの私一人を

 救ってくれるためにあった』





私が時折何かのイベントに呼ばれ、

一言挨拶をお願いされる度に、

「今日は私のためにわざわざ集まってくれて、

 ほんと、あざます!」と、

お約束のダダ滑りを覚悟で言い放つ

ローセンスのギャグとは全く異なるし、


まさか親鸞聖人が独りよがりで偉そうに語り、

「俺のものは俺のもの。お前のものは俺のもの」と、

のび太が震えあがるような意味で発したわけでも、

無論、ないのである。



阿弥陀仏は、

誰一人取り残すことなく、

この私個人に対して、

その一人ひとりをお救いくださるのだという、

究極の個別化。



昔、ジャニーズのコンサートから帰ってくる度に、

「きゃーもう、私と目が合ったの間違いないわぁ!」と

鼻息荒く力説する友人を思い出す。




でも、そういうことだ。




もれなく救うということは、

全員を、一人ひとりを、

受け取り救いとるという

途方もないコミットだ。



だから、今もこうして、

南無阿弥陀仏が、

伝承される。



その、

阿弥陀仏の懐があっての個別化が、

今まさにこの、

ツーリストシップのそれと重なる瞬間なのだ。




「僕、ツーリストシップの申し子だと思うんですけど」




その通りです。

ツーリストシップの想い、願い、

未来に触れ、感じるということ。



僕こそ、

ツーリストシップの申し子だと、

高らかに宣言できることは、

偉そうだとか、勘違いとか、

そんな幼稚な批判の枠を超えて、


そう、一人ひとりがツップを生きることのできる、

例外のない、全員参加の雄々しき姿。



親鸞聖人が語られた、

その途方もないコミットに、

ツップが肉迫したということ。



私はそれくらいの解釈でもって、

あなたの発言を尊重したい。



申し子だと胸を張れる、

その自信が、決意が、

ツーリストシップのサイクルと、

あなたの人生サイクルとが、共鳴する。



やがて社会に、世界に、

その波が伝い、

ツーリストシップの想いが、

皆を一つにしていく。





…ちなみに、今回抜粋した一文に、

五劫思惟の願とある。

五劫ほども深く考え、願いしたという意味だが、


「五劫」とはどれくらいの時間を指すか。


引用個所によって諸説あるので、

ざっと中央値で表現する。




何キロにも渡る大岩に、

天女が数年に一度舞い降りて羽衣で撫で、

その岩が無くなるまでの長い時間




この途方もない時間は、

いわば阿弥陀仏の大きな懐をも表現している。




そう、ツーリストシップだって、

負けていない。



五劫思惟の、ツップの心。

誰あろうこの私も、

申し子の一人として、

なかなか泣かない私だけれども、

あの通勤電車で流したように、

一縷の涙くらいは、

落とせるかもしれない。



ひとへにツップに携わる、

その一人がためなりけり。


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