#13 お客様は神様

お客様は神様って言葉があると思うのですが、それは違うと思うのです。対等な関係があるからこそ、店はよくなると思うのです。どう思いますか。

Fさん

ツップの「こぶし」は、一味違う。

あれは少年時代(井上陽水じゃないよ)、

父と山登りに行ったとき、

天にそびえ立つ幾多の杉の木に出会った。


父がおもむろに石を拾い上げ、

観てろよと言わんばかりに、

杉の木に向かって石を投げた。


すると杉の木から、

オレンジ色の煙がぶわーっと、

グレートムタの毒霧(比喩の偏重ご勘弁ください)のような、

鮮やかに空を色づけたのでした。


…花粉ですね。

やがて花粉症に悩まされる私にとっては、

今思い出すだけでもくしゃみが出そうです。


しかしなぜ、こんなにもたくさんの杉の木があるのか。

この山だけではなく、実は全国的に杉の木を「増やした」。


まずは植えやすいこと。

そして成長が早い。

真っすぐ伸びる木は、土砂崩れの予防にもなる。

木材としての利用価値も、高い。


だから全国的に、

杉の木に代表される人工林が増えたのだと、

無邪気に石を投げたその日から数十年後、

父は私に教えてくれた。


もしかして花粉症が増えたのは、

その人工林のせいなのか?


幾分歴史を呪ったわけですが、

しかし見事に、この顛末には対等感がない。


植えやすく、

育てやすく、

防ぎやすく、

使いやすい。


言わずもがな、

この動詞たちの主語は全て、人だ。


他方で、残念ながら、

恵み豊かに育まれる自然林は、

人類がそう簡単に作れるものではない。


技術もそうだが、

人の介入でもってすでに、自然感は失われ、

否、人工もまた一つの「自然」と括れるという、

擁護説も理解はするが、

結果的に環境は、

人が生み出し、人が作り出し、

やがて人が苦悩し、歯を食いしばり、

対策に奔走するという、

妙な自作自演感が否めない。



対等であることのバロメーターは、

きっとこの、人工に対する感覚と似ている。



誰かの都合で引っ張り込んだ段階で、

既に対等は損なわれている。


逆に、極端に歩み寄り、

不自然なまでの譲歩や溝埋めに奔走することもまた、

対等とは言い難い。



それくらいの複雑なものを、

対等という言葉は、

崇高であるがゆえに、内包している気がする。



だからこそ、対等ではないものには、

そうなった背景も、内在している。



「お客様は神様です」


この言葉、

演歌歌手・三波春夫氏が生みの親であることは、

余りにも有名ですが、

この言葉がなぜ、どんな背景で生まれたのかは、

案外、知られていない。



お客様が神様のように偉い、

何でもありの存在だということではなく、

三波氏本人が、客を神様とイメージすることで、

《雑念を払って澄み切った心で歌う》ために、

そう心がけたものであったと、

丁寧にオフィシャルサイトにも記載されている。


クオリティの高い歌声を披露するための、

いわば心構えである。



対等とは、きっとそういうことだろう。

“神様”と評した背景に触れ、意味に出会い、

そこから、一方的な主語がただ喜ぶような、

片道通行の価値に留まらない、

雑多であるがままの、

それこそ《澄み切った》不揃いさを、

言うのかもしれない。



少年時代、杉の木から噴射された毒霧…失礼、

鮮やかな花粉たちも、

花粉症に悩まされる私の苦悩も、

背景があるということ。


対等でないことをまずは感じ、

その背景を知ることが、


この先の、

本当の意味での対等な関係の構築を

許される気がする。



対等で《ある》ということは、

対等《ではない》ことの許容から始まる。



ツップの対等感は確かに、

対等と相反する、格差やアンバランス感が発端だ。

ここへの問題意識が、ツップという対等感を生み出した。


つまり、アンバランスが、

バランス思考の存在感を意味付け、

導き出されるという無情なロジック。



何だかそう思うと、

何が対等で、何が正義かさえ、

分からなくなる。


全て地球上の、

目に見えない、

まさに神様の掌で動かされいている気さえする。



そうか、、、

だから「お客様は神様」なのか。



この混乱、グルグル感、探求の余白こそ、

対等の実現に必要な土壌なのだと言ったら、

それはちょっと、言い過ぎだろうか。



三波春夫氏のオフィシャルページには、

こんな追記がある。




お客様を神様だと言う面白い場面があるよ、
という評判がすぐに広まり、各地の主催者さんから、


「あの場面、必ずやって下さいね。お客様も待っていらっしゃいますから」と言われ、
連日やらなければならなくなった、というのが真相です。




演歌の神様でさえも、

背景を抱え、生きている。



対等の価値を、

互いに支え喜ぶ関係性を築き上げることを、

ツップ流の《歌》に乗せて、世の中を駆ける。


だからこそ、

ツップの「こぶし」は、一味違う。


いつまでも、誰にとっても、

《澄み切った心で》、歌いたいから。

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