#08 マナーって言う方も言われる方もつらい

マナーって言う人も言われる方も、良い気分がしないですよね。

そこにどう立ち向かったらいいんだろう。良い伝え方、良い聞き方があるんでしょうか。

キャンプ大好き人間

架け橋

子どものころ、公園で野球をしていると、

近所に住んでいるおじさんが、

窓からこちらを見ていました。


見守っているとか、微笑ましいとか、

そんな生易しいものじゃあ、ありません。


まさにその形相は、プールの監視員。


「はい、そこ、飛び込まない」


待ちきれずに水面に吸い寄せられては、

その不愛想な声で背中を刺され続けてきた私ですが、

(いやいや、刺されたって言ったって、

 飛び込むお前が悪いぞ)、

あの全く信頼されていない眼差しが、

プールサイドだけでなくこの公園にも、ありました。



「なんで、あのおじさんは怖い顔して見てるんだろう」

「大の大人が、もう少し優しくなれないものか」




幼心にも、監視員のごときそびえ立つおじさんを横目に、

情けない大人だなあと感じていたわけですが、


…あれから数十年。


公園のそばに住むことになった私は、

近所の子どもたちがボール遊びをする光景を、

しっかりと、そうしっかりと、

あの頃感じた情けない大人よろしく、

不信感満載で見届けている“おじさん”を、

私は演じていたのでありました。



遊ぶ側、監視する側、

それぞれに正義があり、意思があります。


野球をする私、

その後、子どもたちを監視する私。



どれも同じ、私であります。

しかし見事に、立場を変えた。



きっと、マナーを伝える側、聞く側の視点も、

案外そういうことなんだろうと思うのです。



自由に野球ができるグランドがなくて、

小さな空き地でこっそりやるしかなくて、

それでも何とか迷惑かけずに、

楽しく野球をしたかった、私。



公園でボール遊びなんぞしたら、

こないだ建て替えたばかりの、

我が家のフェンスに当たってへこんだらどうする。

おいおい、まあまあ高い買い物なんだぜこれって、

戦々恐々と子どもたちのボールに目をやる、私。



時代を超えて、それぞれの立場が、

つながった瞬間なのでありました。



…この長い前置きに急降下で結論を見出すとすれば、

伝える側にいる人は聞く側の方へ、

聞く側の人は伝える側の方へ、



往来できる橋を架けてあげること。

この“架橋力”が、分かり合う方法だと思うんです。



『他者と働く(NEWS PICKS社・宇田川元一氏)』という書籍には、

「わかりあえなさ」から始める組織論、というサブテーマを題して、

分かり合うには「溝の向こうを眺める」ことが大切と書かれています。


そして溝を超えて、「渡れ」と、あります。



つまり、対岸に行ってみるために、

互いの違いに、まずは橋を架ける、

そして実際に《渡ってみる》、ということですね。



「相手の立場に立つ」も素敵な試みですが、

この場合は、もう実際に、向こう岸に渡っちゃう。



マナーを大切にと言ってくる人には、

どんな思惑があるんだろう。

《一度マナーについて私も話してみるか》。


マナーを指摘される人って、

どういう心情なんだろう。

《一度聞く側になって受けてみようか》。



それぞれが向こう岸を目指すこと、

向こう岸を《こちら側に》にして、やってみること。

それぞれの思惑に触れることが、

良い伝え方、良い聞き方を知るきっかけになる気がします。



しかしその時、「はいはい。あなたはそうなんですね」

てな具合の、軽々しい立ち方は逆効果かもしれません。



本当に向こう側に行ってみる、

しっかりを架け橋を創る、

すると、それぞれの《思惑に立てる》。



野球ができない《思惑》も、

フェンスを守りたい《思惑》も、

「立場に立つ」では浅すぎる。



理屈で理解するよりも、

寄り添った行動の向こう側に、

本当の理解が生まれる。



そして第一、

私たちは、そう簡単に、

向こう岸には渡れないということを、

知ることもできる。



この往来こそ、理解が生まれる。そして、

ツップの目指す旅そのものでもある気がするのです。




ガシャン。



やっぱりほら、

ちょっと目を離したすきに、

フェンスにぶつけたじゃないか。



でもこの瞬間、

もしかしたら、

遊ぶ子供と監視員の私が、

いよいよ理解しあえる《可能性》が生まれた、

絶好のチャンスかもしれない。



引きつった笑顔で、

私は言葉を絞り出す。



「いい球、投げるぢゃないか」



向こう岸には、

まだまだ《完全には》渡り切れそうにない、

いつか見たあの、

“情けないおじさん”が、そこにいた。



人生、修行だなあ。